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たわごと

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「もの=設計思想」と「つくり=職人仕事」

ここでがらりと変わり、日本人のものづくりに関する私の仮説をお話しさせてください。

 実は『ウェッジ』という雑誌で中西進さんという、万葉の権威で奈良の万葉文化館の館長をやっておられる方が、「日本文化はどう展開したか」という連載をやっています。その第1回目をたまたま読んだのですが、そこに「“もの”というのは約一万年前の縄文時代、メラネシアからマナ信仰として渡ってきた」ということが書いてありました。そこでマナは、aがoに変わるという日本語の通則によって“もの”になったというんです。メラネシアは今のポリネシアですかね。たしかにあの辺にある「たらいも」という言葉は「とろろいも」になっているし、他にも同様の例はたくさんあります。

 つまり、ものというのは形あるものではなく考えかただということ。たとえば「もの思いに耽る」と表現するときの「もの」はひらがなですよね。漢字の「物」というのは、後になって出てきた表現です。「ものがたり」も同じ。ここで言う「もの」は考え方なんですよ。それを語るということ。ちなみに哲学者のアリストテレスは約2000年も前に、物質すなわち「もの」は、形状と質からなるものと定義しています。質というのはスペックですね。我々は「設計思想」と呼んでいますが。

 そういうことを日本は随分と前から分かっていたのだけれど、どうやら江戸時代のとんてんかんとんてんかん…、匠の世界に入ってから「ものつくり」と言うようになったんです。実は「ものづくり」というのは最近つくられた言葉で、公式には存在しない言葉だから辞書にも載っていません。匠の世界では「もの “つ”くり」なんですよね。皆さんが見ている生産技術や生産現場は「ものつくり」。濁りません。辞書には農工作の器具をつくるという意味で載っています。ですから「もの」と「つくり」を分けないといけない。中西さんは「ものづくりとは古代から持っていた超信仰的な力であり、それを形として表現したものである」と言っています。私はそこで「もの」を設計思想という言葉に訳したらどうかと考えています。その設計思想を有形物につくり込んでいくというプロセス、人工物につくり込んでいくというプロセスが、製造業のものづくりプロセスと言って良いのではないでしょうか。

 で、韓国の話に戻りますが、私はサムスンにいた当初、日本のものづくりを教えていました。でも、彼らにはものづくりの思想がまったく合わなかった。何故だろうということで韓国の歴史や文化を調べて、ついにはハングルで本を出すまでに至りました。韓国人に「韓国の文化はこうだ」と伝え、あちらにいる間はずいぶん講演も行ったし、KBSテレビや新聞にもとりあげられました。韓国は1392年に李王朝の時代となってから、仏教を排除して儒教を取り入れるようになった。これは朱子学ですね。朱子学が入ってきてから、北朝鮮も含めた現在の韓国文化が構築されていったんです。朱子学は朱子という儒学者が唱えた学問ですが、彼はちょっと変わった儒教を唱える人物でした。儒教というのは、孝を施すことを教えるもので、いかにして孝を施すかということを様々な儒学者が各々説いているのですが、朱子は、ちょっと変わった儒教を唱えたんですね。簡単に言ってしまうと儒教で目標を達成するためには孝を施すには貧乏人ではだめだと説いたんです。朱子学を読むとそう書いてある。富が必要だと説いているんです。で、富は得るには権力がないとだめ。この辺までは日本の政治家とも合っていますよね。ただ権力をどうやって持つか決めようというとき、韓国は試験で決めようということになった。中国では科挙という制度ですが、韓国は李氏朝鮮の時代に「兩班(やんばん)」という制度をつくりました。それがずっと、今日に至るまで続いているんです。だから大学を出た人間は手足を動かしてはいけないということになっている。

 手足を動かしてはいけない、頭で考えろ。すなわち大学というのはアカデミーなんですね。だからヨーロッパではユニバーシティとは言わないでしょう? 仏ソルボンヌ大学だけが工学部をつくったけれど、基本的にヨーロッパには工学部はありません。米国にわたり、ユニバーシティができ、フォードが量産技術を確立した。それが長い100年の歴史を経て日本に入ってきた。だから日本にはユニバーシティがあり、工学部があるのです。

ということは、ものづくりの「もの」にあたる部分を考えるのが大学で、「つくり」が職人さんになる。韓国ではそのふたつが分かれているんです。皆さんに考えていただきたいのは、たとえば「これは何ですか?」と言ってコップをひとつだけ見せると「コップ」と答えますよね。でも、紙コップ、ガラスのコップ、陶器のコップ、クリスタルのコップなど、材質が違う複数のコップを一度に見せたうえで同じ質問をしたら、「ガラスのコップ」とか「紙コップ」と答えると思います。紙、陶器、ガラス、クリスタルというのは媒体であり、材料の名前です。共通するのはコップという「もの」の名前。それが設計情報。だから今まで皆さんが使っている製品の名前というのは、ものの名前なんです。だからこそ「もの」と「つくり」を分けないといけない。
「もの」を売るのか、「媒体」を売るのか
 するとビジネスは二通りに分かます。ひとつは媒体でなく「もの」の価値観を売るビジネス。媒体はどうでもいい。ヨーロッパのシャネルやルイ・ヴィトンといったブランドはまさにそれです。たまたま3週間前、イタリアのブランドメーカーの役員たちが視察という名目で日本に滞在していたとき、私に講義の依頼がありました。そこで今の話しをしたら非常に感動して、「我々はやっぱり“もの”で売っている」と言うんです。媒体としては2,000円ぐらいのビニールが(笑)、20万円で日本の女性に売られていく。これは「もの」に価値があるからです。材料ではなくてね。

 でも日本製品はどちらかというと材料に価格をつけています。だから「もの」で差別化できなくなるとコストダウンを行い、価格競争に巻き込まれる。そして、いずれ負けて撤退する。この最初の例が半導体のDRAMでした。液晶テレビや携帯電話も、設計情報に価値がなくなってくると「つくり」に価値を求めていきます。皆さんの会社でも何かあるたび、製造に携わっているかたはコストダウンしろと言い続けますよね。これが日本を不幸にしてきたのだと思います。少し言い過ぎかもしれませんが、設計情報よりも媒体の値段を下げていこうとしているんです。

 私としては大学では「もの」を考え、そうでない人は「つくり」を担う…、「もの」と「つくり」は分けたほうが良いと思っています。「つくり」はどこでつくってもいいんですよ。これを見事にやっているのが現在のアメリカ。アメリカのつくりは1980年代、日本に奪われてしまいました。だからアメリカは「つくり」を止めて「もの」で勝負した。そうして出てきたのがマイクロソフト、インテル、グーグル、ヤフー、アップルなんです。アップルのiPhoneや iPadは「もの」ですが、その「つくり」は台湾や中国に任せているし、それを日本人も買っている。実際、世界中で売れているでしょ? ものに付加価値があるからです。本当は日本がそういう「もの」を生み出さないといけないし、その技術力も持っていました。しかしあまりにも「つくり」に傾注してしまったため、「もの」をちょっと忘れてしまったのではないかというのが私の仮説なんです。

 それをもう少し大きく考えると、すべてがものづくりではないかと思えるんですね。有形なものと無形なものを分け、さらに耐久と非耐久に分けたポートフォリオをつくっていくと、すべてが「ものづくり」に入ってくる。ソフトウェアやコンテンツもたまたま無形で見えないけれど、耐久品であり、立派な「もの」です。放送関係や対面接客サービスも同様です。スーパーマーケットで「いらっしゃいませ」とやるのも、非耐久で無形の「ものづくり」なんです。実はこの対面接客セールス…、つまり消費に付加価値を乗せて売るということは、30年~40年前の日本にはきちんとありました。ところが最近は忘れてしまった。サムスンやLGはかつての日本からそれを学び、現在、新興国で実践しています。皆さんは今、電子製品をヤマダ電機やヨドバシカメラのような量販店で買うでしょ? 30年前の日本には、そんなものはありませんでした。ナショナルとか日立といった街の電器屋さんから買っていたんです。電器屋さんが自転車に乗せて届けにきてくれるし、セットしてくれていた。昔はちょっと電圧が不安定で停電が多かったから必ずヒューズがあって、「ヒューズが飛んだ」って言ったらすぐに来て直してくれていました。そういう対面のサービスを通して、「あの電器屋さんから買おう」ということになっていったんです。でも今は量販店買う。だから今の電機メーカーは量販店がお客さんのようになってしまっている。結果、自分で作った製品なのに、自分で価格を決められないというところまで陥ってしまった。オープンプライスなんて情けない話です。こういう形になるとどうなるか。故障したから電話をしてもなかなか繋がらないし、やっと繋がったら一番押せとか二番押せとか(会場笑)。そんなサービスは新興国にありませんから、自分で売りにいくしかないんです。だから日本製品は売れない。某メーカーの担当者がブラジルやベトナムに行って「売れない」と嘆いている。何故売れないんですかと聞いたら「量販店がないから」と言うんですよ。あるわけないじゃないですか。日本の40年前を思いだしてくださいということなんです。とにかくサービスを含めてぜんぶ「ものづくり」。京都の舞妓さんもスーパーマーケットのおばちゃんも「ものづくり」なんです。

 結果的には消費というのが大事になります。日本人はそこを忘れている。皆さんも消費とは何かという点について、よく考えてみてください。消費者と言いますよね。でもお金を出して買っただけでは消費も生まれません。食べ物を買っても冷蔵庫に入れておいたら腐るだけでしょ。でも売ったお店のほうは消費されたと思っている。だから腐っているかどうかもわからない。自動車だって運転してはじめて消費になる。ということは、操作をしないと消費にはならないんですよ。操作をしたところだけが機能として出てきて、ユーザーに振りかかり、顧客満足になる。ワクワクするのかイライラするのか…。イライラしたら「二度と買うか」ということになるし、ワクワクしたらまた買おうと思います。これをさらに考えていくと、ひとくちに操作と言っても、たとえば北海道で操作するのと九州で操作するのでは環境が違います。だから環境によって操作が変わってくる。ですから、操作したぶんだけ機能が出てくるということになれば、操作をする機能だけで売らなきゃいけない。私はケータイでは電話とメール機能しか使いません。だからどんな機能があるか分からないんですよ。3年前に買ったものを今も使っているのですが、娘に聞いたらもの凄くたくさんの機能があった。でも消費していません。電話とメールのみ。そして日本では、使いもしない、消費もしない機能を詰め込んだ3万円とか5万円の携帯電話がつくられているんです。これはもう詐欺みたいなものですよね。サムスンやLGはそこをちゃんと考えているんです。たとえば最近、アフリカのナイジェリアでは携帯電話の普及率が90%前後にまで伸びた。凄いですよね。ナイジェリアの携帯は、ほとんどサムスン製かLG製です。電話機能だけで価格が1,000円ちょっとの製品。このあいだテレビであちらの部族の人たちが裸になって踊っているところを見たのですが、裸で踊っていても首には携帯をぶら下げているんですよ(笑)。それで隣の村と話をしている。電話の消費しかしていないから音楽をダウンロードしようなんて思わないでしょ? それなのに3万円というなら、絶対に売れませんよ。

 とにかく消費が重要なんです。有形の人工物には、ある環境のなかで操作して初めて消費が生まれる。これを日本のメーカーは忘れて、使いもしない機能を入れて「どうだ」と言う。で、それをまた日本人が喜んで使うという…、それだけ日本は豊かですから。でも皆さんだって携帯電話の機能をぜんぶ消費しているとは思えないですよね。機能は環境に合わせて小刻みに提供するものなんです。それがグローバリゼーション。 208カ国あれば208カ国の環境と操作がある。そしてテレビでも洗濯機でも冷蔵庫でも、208カ国すべてでスペックを変えていく必要がある。そこが日本の負けているところです。今までの開発プロセス、組織のあり方、ITの使い方、管理の仕方…、全部変えないといけませんよね。高度成長時代のまま、高機能・高コスト・高品質の製品をつくっていた時代と同じ組織能力で、いくらグローバリゼーションと言ってみてもだめだと私は思っています。


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